大阪合気道自主稽古会

流派を問わない合気道の稽古場です。小説、漫画、などが混在しています。稽古記録はタグをご利用ください。出典明記があれば図の引用については問い合わせ不要です。。

遠藤征四郎先生「響きと結び」

 合気道50周年 佐久道場20周年の区切りに書かれたそうです。記念のものだし、英訳付きなのが勉強になるので高いけど買っておくかな、という程度の気持ちでした。ところが大変質の高い教科書だったのです。

もともと厚くなく、写真も豊富で美術展の目録のような余裕のあるレイアウトです。しかも見開き右側は英訳文なので実質半分の量です。それでいながら、多くの稽古者が疑問に感じたり悩んだりする点ついて、私達の質問を予見しているかの如く網羅していることに驚きます。簡潔に、自分はこう思うということが書かれています。

仲間と合気道話をしている時、「そらきた。それについては遠藤先生によると…」と、じつに頻繁に本を開いては参照できるのです。最後には合気道の(遠藤先生なりの)目的ということまで、誤解や批判を恐れずにさりげなく言及しています。

突飛な秘伝はありません。普通のことが書いてあるのに、なるほど!と思わせます。 稽古記録26の後記にも書いたようにです。いくつか覚書として引用しておきます。人の話を訊くのは面白いですね。

 

響きと結び -私の求める合気道-

響きと結び -私の求める合気道-

 

 

 <第Ⅰ章 而立までの足跡>
真綿を踏む足遣い (p22)
"…片方の足の膝を柔らかく、もう一方の足は膝を上げてつま先から軽く、確実に下して歩む。それを見て、私は母が古いふとんを直している時の姿を思い出した。…この足遣いは、大澤先生のすべての動きにつながると気づいた。ひょい、ひょいと軽く足を遣い、手を遣う。"
 
転帰 ― 山口清吾師範 (p26)
”山口先生からは「だまされたつもりで、五年でも十年でもやるしかない」と言われていた。…私は、「力を抜いた稽古をしようと研究しており、まだうまくできないのでそれなりの受けをとってくれるように」と、恥を忍んで生徒にお願いした。そして力を抜いた柔らかい稽古を続けることを、自分自身に誓った。"
 
 
 <第Ⅱ章 稽古に思うこと>
守破離 (p36)
"開祖は、形に関して、次のような言葉を我々に残している。「合気道は、周知のごとく、年ごとにことごとく技が変わっていくのが本義である。…」”
 
形から何を学ぶのか (p42)
"「形」と「技」を混同して使っている向きがある。私は、形とは万人のものであり、誰でもある程度はできるもので、一方、技は個人のもであると思う。技はその時、一度きりのものであり、かつ個人の感性から生まれ出るものであって、芸術の領域に属するものだ。"
 
 
 <第Ⅲ章 言葉からの学び>
8. 放てば手に充てり (p86)
”私の場合は、いきなり”放つ”ことはできませんでした。それでも、力いっぱい握ることは、自分が握っている相手の体の部位に私の腕が固まり、気持ちが囚われているということに気づきました。” 
”私は稽古の中で「捨てろ!捨てろ!」とよく言います。何を捨てるかー自分を捨てるのです。使い方の悪い腕を捨てるのです。それは一瞬です。小さな自己がそこにあるから、そのために身動きができないその自己を捨て、捨てきってしまえば、自然と次の動きが現れてきます。握られているところが動かせないなら、そこは捨て、そこは忘れて、ほかの動くところから動かせばよいのです。”
 
9. 武道はいずれも敵を前において、自己を創造するものである (p90)
”…大先生のおっしゃっていたことと同じで、今、今、今というこの瞬間、何をするかを問われているのだと思います。”
”しかし、私たちが求めている稽古はそんなものではないはずです。そのような不自由な状況から抜け出すことが、道を学ぶことではないでしょうか。究極のところ、私たちはもっと自由になるために合気道をしているのです。今この瞬間、相手から響いてくる状況を味わい、周囲の状況うべてに対して自らの感覚を開き、働きを生み出していけるようになっていかなければなりません。”
 
10. 事理の二つは車の輪の如くなるべく候 (p94)
"…沢庵は、「心の置き所はない。どこかに置けば、そこに執着する。一点に執着すれば、他に隙ができる。絶えず流水のように、とどまらず動いていることが肝要である」と言います。…”
  (⇒読者注:だから「状態」ではなく、絶え間ない「運動」を極限まで細かく繰返した連続となるわけですね。臍のブラックホールも、中心帰納も。)
 
”…気持ちを静かに保てる方向で稽古をしていかねばなりません。”
   (⇒読者注:自分にとってそうなれる状況を準備しておくとよいと思いました。心当たりはあります。
 
 
 
 <第Ⅳ章 宮本武蔵から学ぶ>
 ”基本は大切だが、稽古をすればするほど形骸化が目立ってくるのをどうにかできないかと強く思っていたころ、武蔵はたった五つの形である「五つのおもて」のみで、「太刀の道」、「心のさき」を習わせたことを知った。…つまりからだ全体を自由に使いこなせるまでやわらかにする。” (p106)
 

引用以上。下線・注は私の挿入。 

響き、は相手の動き出す前に発せられる意図を指しているように理解しました。結びは、分かりませんでした。また読んでみます。今のところ、自分自身とという意味かな?と思います。やはりね、相手と一体になることだとは、書いてはいません。1つになっても仕方ないんじゃないか?といつもちょっと不思議に思います。

合気道でよく耳にする言葉で、私が何となく程度にすら 全く意味が分からないものは、「調和」という言葉でした。

 

追記: この記事を書いたのは2018年の1月でした。最後の部分が書けなくて放置していましたが、最近「調和」について なんとなくのイメージができてきたので投稿します。これはまた後日書きます。