大阪合気道自主稽古会

合気道経験者のための不定期な稽古会です。忙しくて道場に通えないが時々稽古したくなる人向け。流派は問いません。

繰返される「スケープゴートによる幕引き」という予定調和

 私達は"薬害エイズ事件(不適切な表現。本当は「輸血事故」)"が結局何であったか、ある程度共通の理解を持っているでしょうか?

1980年代、血友病の患者に使われる「濃縮凝固因子製剤」(人の血から作られる)に未知のウイルスが混入していることが分かりました。それはのちにHIVと呼ばれるウイルスであったため多くの人が亡くなったことがありました。血友病とは、出血を止めるための蛋白を十分に作れない病気です。血管がたえず伸び縮みさせられる関節の内部では誰でも少しは出血していますが、止血蛋白があればすぐ止まるので気付きません。しかし止血できなければ皮膚がパンパンに張り切るまで出血し続け、大変痛いのです。そして出血を繰り返すと関節はだんだん固まって動かしにくくなってしまいます。脳の出血なら即、命にかかわります。そんな重症の患者たちにとって、注射したとたんにたちまち血が止められる濃縮凝固因子製剤は待ちに待った福音であり、それが自宅でいつでも自己注射できるということは、長い血友病の歴史の中で初めて「健常人と同じ生活ができる」「同じ寿命が望める」ということを意味したのです。

あれはなんだったのか?いまだに「巨悪のお上」と「弱者の庶民」の対立像(例えば産学癒着、寄付金目当ての悪だくみ)という、日本人お気に入りのストーリーを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

それはあの時、私たちが結論をだすことを放棄したためです。

現実は与えられるエンターテイメントとは違って理不尽で、ドラマチックな盛り上がりやスッキリ気持ちの良い結末などないということを受入れなかったのです。

アマゾンでキーワード検索したことがあります。時流に耐えられず絶版になった、陳腐な陰謀論的ゴシップ本ばかりが細々と沢山引っかかります。あの大事故すら時代遅れで流行らない話題にすぎないのか、しっかりした記録がまるで残ってないのかと暗澹たる気分になりました。その中で唯一これは良かったと思った本が今回紹介する「阿部英医師 『薬害エイズ』事件の真実」(現代人文社,2008)です。時系列も正しく、時代の医療的認識は当時問題に従事しておられた先生方の印象と合致します。当時の弁護団ミドリ十字社員など複数の当事者によって書かれました。

安部英医師「薬害エイズ」事件の真実

安部英医師「薬害エイズ」事件の真実

 

  一言でいえば、現場の事故の多くはシステムエラーであり、事故が起きたときにシステムを調べ上げることが改善・予防の大前提です。本来エラーを起こした個人が誰であるか、ましてやその個人がいかなる人格の者であるかは重要でないのです。しかし日本では犯人探し(いない場合は、大衆に憎まれる、悪意を持ってエラーを行った悪人役を作り上げる)に腐心するため、関係者は口を閉ざし、肝腎のシステム調査が進みません。個人を叩きのめしても、事故の再発は防ぐことができません。

以下引用

”…誰の責任でもない悲劇が存在することもまた事実です。しかし、わが国のマスメディアには、悲惨な被害者が現実に存在するにもかかわらず、誰の責任をも問えないという苦しい現実を受け入れられない弱さがあるのではないでしょうか。だから悲劇がある以上その犯人が居るはずだ、という感情的な反応に終始し…スケープゴートを作り上げ、思考停止による一件落着という結末を選んだとも言えるのです。” (p180)

 さて、1人の医師が、危険かもしれない濃縮製剤でなく当時から見て従来製剤であるクリオに戻すよう医師らを指導すべきだったと責められました。しかし海外の曖昧な噂にすぎないウイルスのリスクを恐れて、やっと人生を手に入れた患者達から濃縮製剤を取り上げて、病院でしか投与できない不便で高価で止血力の弱いクリオに戻ることなどありえない、というのが当時の空気でした。世界の血友病団体も、そのような勧告は出していませんでした。仮に結果論ではそれが良かったとして、その空気を専門外の個人(医者は医療の専門家であってウイルス学や疫学、まして医療行政については素人)の判断に帰した。日本より被害者数の多かった他の国々では最先端の研究チームが結成され多国間議論を重ねながら奮然と調査している問題の責任を、たった1人に負わせて済まそうとした唯一の国だったのです。

 今ふりかえると冗談のように愚かです。しかしここで、「そんな当時の検察やマスコミや先のゴシップ本の著者は、なんて悪人なんだろう」と思った人は、一番の責任者です。

 現場の第一線で最も熱心に問題に取り組んできたからこそ目立ってしまった「出る杭」を、証言台に立たせて見世物のように叩けば溜飲をさげて大人しくなるだろう、と政府やマスコミに思わせているのは、そんな人のそんな他人事な思考だからです。

結局あの極悪人は犯人ではなかった、と皆が白けたところで、なにも得られないまま、むしろ最も熱心な医者を1人死なせて幕引き。本には付録として、第一審判決文全文のCD-ROMがついています。

 

もう一冊。そのころ世界では前述の如く、時間や資源や労力をスケープゴート探しに費やすかわりに、未来の改善のために使っていました。例えばアメリカでは医師や行政の責任を問うのではなく、なぜ起こったか、今度同様のことが起こりうるがどのように対処すべきなのかが徹底的に分析され、素晴らしいレポートが生み出されました、

この調査は

”いかなる個人的な 集団的な決定に対しても法的責任を求めたり避難を加えようとするものではない。…得られた教訓を、未来の指導者たちに提供することを目的としている”(まえがき)

HIV And the Blood Supply: An Analysis of Crisis Decisionmaking

HIV And the Blood Supply: An Analysis of Crisis Decisionmaking

 

 

医療はつねに未完成です。今もこれからも必ず同じことは起きます。だれに責任あろうとなかろうと、損害を被った患者を遅滞なく救いだし保障してから、社会全体のシステムを国民全員の責任と主体性をもって正面から評価できる成熟度が、日本人には求められます。それは極度に発達した医療という巨大な馬を乗りこなすには必須です。馬での事故を、乗り手の腕不足と捉えて乗馬訓練に励むかわりに、馬を危険で邪悪な怪物としてヒステリックに叩き殺すことしかできない集団は、馬を使う資格はない。そんな馬に跨る夢を見るには、今の私達はまだ幼稚すぎるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

稽古会の日程 2017/9/28

9/29(金)

18:30-19:30です。

ここの道場はまだ蚊が出ます。虫除けをしてください。

 

冥王星島4

近所の藪医者に言われて大きい病院を訪ねて来た。藪医者は病院で見せる手紙を書いて彼に渡したとき、わたたにがそれをちゃんとポケットに入れるのをじっと見張った。それで彼は、あ、これは捨てたりせずに本当に病院へ行かきゃならんのだな、と分かった。船から乗り継いだ電車を降りてプラットフォームに立ったわたたには、この街を初めて見た。改札口を出るといきなり港だった。船ばかり作っているのんきな海岸から振り向けば、ぎょっとするほど近くに山が伸び上がっており遠近感がおかしくなりそうだ。それなのに人々は当たり前のように歩いていた。

絵本の挿絵のなかに入ったようだった。どの角もどの小路も古くて初めてだった。

 

友達のよしはるが子供時代をここで過ごし、とても楽しかったことをよく話した。それはじつに具体的だった。何年の夏にどの桟橋から何を釣ったか。夕方には一輪車で売りに来る魚屋から、母親がどう上手く買い、どう料理して美味かったか。その魚屋はいつごろまで見かけたか。どの店で何を盗んで叱られたか。

わたたには繰り返しそういう話を聞いたので、ここへ来て懐かしい幸せな気分になった。自分もこの街でそんな楽しい子供時代を過ごした、そんな錯覚を持ったからだ。自分自身のそれは暗いものだったため、かつてよしはるの昔話は自分には無縁の暖かさとして密かに心冷やす時もあった。世界と自分を隔てる地割れは巧妙に隠されながら通奏低音のようにわたたにが成長する分だけ長く裂け、世界に素手で触れることは永遠にないはずだった。しかし今、錯覚と分かってなお、その嬉しく満ちたりた懐かしさは心臓と一体に癒合して去らなかった。日常の慌ただしさが立ち込めはじめた下町の歩道で、病もその憂さも目からこぼれ落ちていくのを止めようとしない自分に驚いた。夕刻の喧騒が優しく遠のく。

生き続けるとはなんということが起こるのか。過去は変わるのだ。来歴も自己像も、その他諸々と並列な ただの石ッコロに縮むとは。

 この世はずっと理不尽で不平等だった。だから昔から人には物語が必要なのだ。蘇りのための物語が。

 

               

いろいろすぎる合気道4

中心帰納は己の中へ立ち戻ることで無に戻る。考えてみれば理にかなっています。何故なら自己とは本来、外界の情報を処理するための容器とすると、それ自体はカラッポであるので自己に帰れば無であるわけです。

私達の「内面技法」はかなり広い意味合いを持ちますが、そのうちで「スイッチを切る」という部分が共通してると思いました。

 下図の斜線部分です。白いところが未探索領域。自分たちの領域すら全貌不明。

f:id:fanon36:20170915162246p:plain A=中心帰納 B=内面技法

 どうなんでしょう。技を受けた時の感触は似ていたのです。

 

追記(2017/9/16)

この記事を書いた後に白石先生から「成田先生はよくここの合気道を『他力本願』と仰っていた」と教えてもらいました。

これも斜線部分ですねぇ!興味深い…。

 

しかし言葉は言葉でしかないので要注意です。私の属する流派では、それを「努力しなくていい」と解釈し、必死に探求している人を冷笑する人がまれにいました。

考え方は自由とはいえ、例えば「無為自然」を本能のままでいいと解釈したら、それは犯罪行為でしょう。一方白石先生の「第2の本能として自然に出るまで練習しなさい」というアドバイスは、私はとても納得できます。

しかし、「その他力とは無意識を指す」とまで明言されたのは初めてでした。私はもっと曖昧な雰囲気として解釈していました。クリアですね。

 

本当に合気道には流派がありませんね。個人個人があるだけで。面白いです。

 

 

 

稽古記録 2017/9/11

         ★ 本日の"幻想のTABOO" ★

           ① 合わせなくていい

     <稽古記録>

2017/9/11(月)18:00-19:30 天神橋道場 

<参加者>2名

<負傷者>なし

【1】 浮かんだ体の復習:急に持たれた場合

・ すぐに体の「浮き」を作る。←つま先立ちの筋トレをしましょう。

・ 浮いた腕で落とす時、相手を意識してはいけない。合わせようとせずに無視する(Fig1.)。よく「相手の力に合わせて」と合気道では言われますが、それすらケースバイケースです。「合わせない」ような練習も必要。

       f:id:fanon36:20170912170800p:plain Fig1. まるで受が存在しないかのように

【2】片手持転換呼吸投

① 誘い手(舟漕ぎ運動のときの腕)。掌は笹葉形 (Fig2.)。

② 結んだところは位置を固定したまま、コンパス運動にならないよう まっすぐ受の横に入ろうとすると、肘は必ず曲がります。「曲げてはいけない」と思っていると、足運びの軌跡が膨らんでしまいます。

③ 最終的に受に並び気の方向が同じになった。その結果、腕は受に乗るような形になるが、最初からこれを狙っていくと上体が前のめりになったり動きづらくなる。

f:id:fanon36:20170912170834p:plainFig2.持たれた手首の位置は固定

 

【2.5】 2.の内容を分解して運足をピックアップ

手も足もその軌跡がコンパスならないように直線を意識するのは従来通り。

あとは目線をつかって転換をする。目線は足に先行する (Fig3)。

敵が前方(☆)だけでなく後方(月)にもいると想定して開始。

はじめは目線は☆を捉えている。次の瞬間は月を。どちらも見ていない無駄な時間ができるだけないように。集中しにくい時は指差しを加えてもよい。

f:id:fanon36:20170912172720p:plain

 Fig3. 目線を気として使う

 

         <Debreafing>

運足をひたすらやっていたようです。しかし1回の稽古で体捌きがぐっと合気道らしく見えるようになりました。次の稽古までにこれらの動きが自然にできるように練習です。

手足がコンパス運動をしてしまったり、肘を曲げることを意味なく拒否してたりするのに気づきました。癖を取るには時間がかかります。

合気道に限らずなんでもやってみることは、とても大切です。大人になり頭の中のシミュレーションで何でもすませる癖がつくと、じつは頭はそれほど予測性に優れていない事実に気づけません。とくに生命維持に寄与しない新たな体験は頭脳にとってエネルギーの無駄遣い、それどころか生命維持にとって変化はリスクでしかありませんから「やらなくていい」理由ばかり思いつかせます。

 

今回はまた新しい道場でした。天神橋道場は床がカーペットではありますが、防音なので遅くまで使うことができます。空調が整っていて快適でした。今後もしばしば使わせてもらうことになるでしょう。稽古仲間募集開始です。

 

       @Kitchen Cotocoto (https://ameblo.jp/kitchencotocoto/)

木でできたこじんまりとした内装が落ち着きます。激戦区でかなり長い間営業している。ワインメニュー記載方法に改善余地ありとのこと 私は飲めないので分かりませんが。

f:id:fanon36:20170912062727j:image  f:id:fanon36:20170912062734j:image

 

 

 

 

冥王星島3

オオタニワタリは 大人の肘から先ほどもある大きな薄い葉で両端がクルクル巻いて繁る。刻んで炒めれば全部食べられる。硬いわりにあくがない。春から夏の終わりまでは若芽が大量に取れるのでわざわざ硬い葉を食べることは少ない。若芽は柔らかくほとんど生でもしゃきしゃきいける。

切り通しの南斜面にある天然のオオタニワタリ畑で若芽を取ってきてくれる子供がいる。四年生に上がるころから学校へ行かなくなったので時間があるのだ。順当に行けばとっくに中学生だが農民みたいに暮らしている。

この辺りは気候のおかげで野菜がよく育ち、種類を選ばなければ食べていける。それでも野菜は歩いては来ないので、あまりものを運んでくれる子供は役にたった。だからたまに必要になる喘息の吸入はタダでやってやる。母親は小学校の先生で、ツチダ先生という。父親は家で習字教室をしている。子供は習字はやるようだ。秋の町内文化祭で習字を発表していた。孤客最先聞とかなんとかだ。上手くはなかった。墨は黒々と良くすれていた。

 

                                 

いろいろすぎる合気道3

続きです。前回発見した合気道を検索したところ、

一元塾 - 旧大日本武徳会制定 光輪洞合気道 が本拠地のようでしたが、

日程の関係で今回お邪魔したのは無元塾(https://mugenjyuku8-aiki.jimdo.com/)です。白石塾長は他流派のビジターにも関わらず丁寧にご紹介してくださいました。

そこでは、流派に関わらずただ成田先生の合気道を広めたい!という気概が放射されていて圧倒されます。言葉にしにくい技術を伝達するシステマティックなメソッドを作り上げるには長年の努力が伺えます。惜しげも無く教えてくれたうえに、習ったことをこうして記録したり公開することに制限はないと承諾いただきました。ただしここでの内容はわたしの記憶と解釈に過ぎないことを明記します。

本当に知りたい人は無元塾を訪れたり、成田先生のご著書を参考にしたりしてください。

 

如是我聞 円和の合氣道

如是我聞 円和の合氣道

 

 

 

さて、ほんとうに新しい流儀を短時間でダイジェスト的に教わったのですが、「ちがう点」と「共通点」を一つずつ上げます。

最大の差異は、自己の自然体の作り方 および相手の反応停止状態を誘発する方法であると感じました。ここではキーワードは「中心帰納」であります。

我々は、わざと相手や技でないものに気を取られたり空間全体に意識を広げたりします。内面技法と呼ぶものです。無意識的、生理的な体の動き(速い反応)を、大脳発の運動(遅い運動)で邪魔しないための操作です。そうして受は技がかかりやすい状態に、取は技を掛けやすい状態を作ります。とにかく空間を重視する傾向があります。より広がる、です。

一方こちらでは、意識を己の体内に戻すことにより、どうしても接触部位に囚われがちな意識(動きの中心点)を引きはがし、腰中心で回ることができるようです。より点に収束する、です。

「中心帰納」にはもっと深い意味があり、これは初心者が見た入口としての理解です。実際にこの意識の動かし方を、一般道場での稽古で使ってみました。すると、とても自然に動けるようになることが分かります。「手で動くな」と言われてもどうしたらいいか分からず困っている人は、ぜひ試してみるといいと思います。どうしても取れなかったぎこちなさが ふ、と消えるかもしれません。

続きます。