大阪合気道自主稽古会

流派を問わない合気道の稽古場です。小説、漫画、などが混在しています。稽古記録はタグをご利用ください。出典明記があれば図の引用については問い合わせ不要です。。

歴史の扱い方~アイズリー先生の1960年代

私は記憶力が極端に低いため歴史を全く覚えていませんが、必要だなとはいつも思っていて気になります。私が大好きな科学者で詩人のローレン・アイズリー先生 (1907-1997)が、過去としての歴史を無に帰すことで何かを作ろうとすることの矛盾点について「サイエンス」に寄稿しています。非社交的なタイプの人によくあるように、私も友達が少なく、大人になってもimaginary friends(空想の友人)がおりまして、この先生もその一人でありました。著作権などが怖いので、不完全に和訳しました。

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Activism and the Rejection of History
  L. Eisely, Science (1969)165:3889

 素朴なくらしへの回帰を望みながら、現代社会の達成目標との板挟みになっているのが我々だ。果てしない知識への渇望は、追い求めるべき理想郷とは逆方向だ。知識、少なくとも20世紀の知の積み重ねでは幸福は得られない。

私たちは今までになく時間にうるさい世代だ。カメラやテレビ、考古学的調査、放射性炭素年代測定法、花粉測定法、地下水調査、磁気性記録法などによって物事を地層学的に振り分け、古代都市を復活させたりした。毎年クリスマスがくると氷河期の壁画とレンブラントの絵画がいっしょに並べられる。リビングのテレビではポンペイの風景もマヤ文明もいっしょくたに放映される。映画「2001年」ではそんな古代の骨が空に放り投げられて宇宙船の形に変わっていくシーンがあるが、テクノロジーの進化の全行程を数秒に縮めて表現しているわけだ。観客はそんな文明のシンボルをみて過去への深い畏敬の念を抱くだろう、と思われた。

おかしなことに実際は真逆で、我々は無意味な断片でできたモザイクのただなかにいる。それはサルの頭蓋骨からマヤ遺跡まで取りそろえた雑多な時代のデブリスにすぎない。我々は観光客 ― 歴的に貴重な破片や崩落した門、沈没した回廊を見物はするが、実生活の指標として学びはしない観光客だ。

過激派が通りやキャンパスで暴動を現代という時代に捧げている、その現代というのは不合理で堕落した不適切な時代かもしれないのに。具体的には大衆の衣食住を保障する制度に代表されるような過去を入念に廃棄し新たなる人生をスタートしようとする運動なのだ。

歴史の積み重ねを持たない高貴な蛮性への憧れが、あらゆる世代の人々を浸食し始めている。18世紀のフランス哲学者と追従者の二の轍を踏んでいる。政治運動という人を狂わせるドラッグに依存するものは混沌たる現代に自らを閉じ込めるのみならずせっせと過去を捨て去ることによって合理的な未来を導き出すために必須であるはずの考え方や価値観を破壊しているのだ。

結果、世界は更に暴力的で予測できないものになる、初めて地球に人間が出現した時のように。それは単純な話で、過去を尊重することを否定すれば、すなわち計画する動物というヒトの属性を犠牲することになるからだ。人類の軌跡から言えることは、ヒトは脱ぎ捨てた本能を分化伝統や多岐にわたる得難き思想の発展で置き換えてきた創造物だ。予測不能で危険な未来への導き手として、過去から学ぶことは安全かつ有効であったのだ。ややこしくしてしまった世界へ、何の準備もせず学ばず向こう見ずに飛び込むことは、皮肉なことに、まさしく憧れの旧世界の教訓をも含める歴史を否定することなのだ。

Loren Eiseley (ペンシルヴェニア大学 考古学と科学史 ベンジャミンフランクリン賞受賞教授)

    

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アイズリー先生の日本語で読める本が手に入ります。 

夜の国―心の森羅万象をめぐって (プラネタリー・クラシクス第2期)

夜の国―心の森羅万象をめぐって (プラネタリー・クラシクス第2期)