大阪合気道自主稽古会

流派を問わない合気道の稽古場です。小説、漫画、などが混在しています。稽古記録はタグをご利用ください。出典明記があれば図の引用については問い合わせ不要です。。

稽古記録54合同稽古第2回 (2018/9/7)

  2018/9/7 (金) 18:30-20:00 地下道場 参加4名、負傷なし

                   <まとめ >

 1・稽古内容と反省 

2.合気道とは何か、が分かったよ!

 

普段の自主稽古会は忙しい者同士、仕事の終わり具合と禁断症状と天気 (野外でする場合) に合わせて、ほとんど突発的にあります。今回は、前もって開催日を告知してわりとちゃんとした特別自主稽古会の第二回目です。大変感動的な内容でした。まず当日のレジメです;前半は「技をかける前の準備状態を作る」、後半は参加者である神戸稽古会H先生の「身体合気」の技法の1つ、「つつみ」を体験しました。


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 【1】「良い姿勢」をとる練習

「技をかける前の準備」としての「良い姿勢」です。良い姿勢をどうとるか、その結果重心がすこし前へ移動して、受は後上方への力をうける事を練習しました。良い姿勢とはリラックスした姿勢のことですが、その姿勢を意識的に作る練習をしました。ここでは一旦腰を落とすやり方を例示しました。

片手持で受と釣り合っているとき、前方に押す姿勢になっているので、上半身は前傾し骨盤も前傾し、後ろ足の踵を床に押し付けています (Fig.1 A)。仙骨下端は体の中心線より後方にずれています (☆)。中心軸からずれているため、この姿勢は悪い姿勢です。そこから両足の真ん中に、腰を数センチ腰を落とします。骨盤はまっすぐになり仙骨は中心軸上に戻ります (B★) 。そこから真上に戻ります (C)。すると仙骨は中心軸上に載っており (★')、その真上に乗っかった上半身も中心軸上です。仙骨はスタート地点の☆と比べると、最終地点の★'はすこし前(図Cでは5mm) に出ていますね。前に出ているというより、本来の軸に戻ったのです。

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   Fig.1  仙骨下端の軌跡は「レ」を逆から書いた形です(D)

 

片手持ちしているとすると、上肢を「折れない手」で胴体に固定していれば、仙骨が前方へ戻った分、結んだ手先も前方へ移動しています (Fig.2 矢印) 。手だけ前に出すと受は反応して硬くなりますが、胴体自体が動いているので気づかれにくいです。理想には受を自覚せずのけぞらせることです。

 f:id:fanon36:20180908221113p:plain Fig.2 相手と指先を合わせて、実験してみましょう

 

注意:腰を落とすとき、後ろ脚の上に腰を下ろすようにしていまうと後ろ重心のままなので、弱い姿勢です(Fig.3 A)。仙骨は真下に直線運動しているだけです(B)。このような場合、もしくは結んだ手を空中に固定せず引いてしまったとき、受に押し込まれてしまいます。

f:id:fanon36:20180908221144p:plain Fig.3 腰を落とすというより腰が引けてる状態

 

      ~練習のこつ
力いっぱい持ってしまうと微妙な変化が感じ取りにくいです。50:50で釣り合っている力を49:51に変える程度の精度で。受の方が難しいです。脱力と「折れない手」で行いましょう。ときどき見かける人のように「相手を止めてやろう」という邪心が入ると、永遠に感じ取ることはできないので時間の無駄になります。この練習は1人ではできませんから、相手は敵ではなく、ともに協力しあうパートナーですよ。

 

 【2】お腹と頭を空っぽにする。

内容は前回の稽古記録53【2】と同じです。

要は取の身体的意識的な方向性をなくすことです。取が持たれた手を意識しなくなることができます。また捉えどころがなくなるので、受は支えを失ったように錯覚します。受は多くの場合、【1】で少し後ろにのけぞった反動(立ち直り反射)として前にのめります (Fig.4) 。この時、取は慌てて引っ張ったりせずにじっと我慢して、受がじわじわと前重心になる「ゆっくりとした生理的姿勢反射」の感触を感じましょう。反射といえば腱反射の素早い動きのイメージが強いですが、姿勢反射は脊髄よりも高次な中枢で制御されるため、ゆっくりなのです(神経系の反応速度は原始的な部分ほど速い) 。このゆっくりスピードを知らないと、「崩れてきたな!」と思った瞬間むりやり引っ張ってしまい、受を硬くさせて失敗します。ゆっくりスピードに合わせて手助けするように誘導してやると、受はなぜか自分から倒れてしまった、という不思議な感じをうけます。

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Fig.4 この立ち直り反射は不随意 (無意識) に引き起こされるので受本人にもコントロールしにくい。

 

【3】受の重心のズレを感じ取って、それを優しく落とす

受が後ろにのけぞり過ぎたら、そのまま後へ落としてやります(呼吸投)。前方へ立ち直ってきたら、そのはずみを利用して前に落としたり(隅落とし) 、もう一度上方へ立ち直るのを利用して後ろへおとしたり (入身投) 、します。今回の稽古では、崩しが先で、技は結果、という順でやりました。

 

【4】良い姿勢すると、足が動く

「良い姿勢」の利点として足が動きやすくなることがあります。前傾姿勢では、後ろ踵に力が集中して足がすぐ動かせません。居着く、というやつです。良い姿勢になると両足の真ん中にバランスしているため両足とも良く動きます。

たとえば【1】では練習のために逆半身片手持ちで相対していました。感触を学ぶためにはこれでいいのです。しかし実際に考えると、真ん前で操作していると受の逆の拳が飛んでくるので危険です(Fig.5 A)。なので、よいポジションへ移る必要があります(B)。そのためには足が軽く自由に動かなければなりません。そのためにも良い姿勢は大切です。

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 Fig.5 トコトコと小刻みに移動してみて、位置によってどれほど相手の抵抗力が変わるかを体験しました。

 

 

【5】神戸稽古会身体合気技法「つつみ」

参加してもらっているH先生は、武道における人間の生理的反応を研究しておられます。私の理解では、被験者に対する刺激入力を、「圧および触感」というx軸と、「方向」というy軸と、「継続時間」というz軸の組み合わせで調節し、それに対する被験者の反応データを蓄積しなんらかの法則性を見出しているようです。滅多にない機会なので、その基本技法の1つを体験させてもらいました。

被験者は坐位で拳を前に出します。相対した施行者がその拳を手のひらで包んで後ろへ押します。ふつうにギュッと掴んでグイッと後ろへ押しても被験者は転がらずに堪える事ができます (Fig.6 A)。「つつみ」とはふんわりと、拳に負担をかけないように手のひらで包み込むやり方です。x軸=「触れているが圧はない」、y軸=「方向性なし」、z軸=「1秒弱停止」といったところでしょうか。この状態を作った後、静かに後ろへ拳を移動させると被験者は背中の方へひっくり返ります(B) 。これを初めて体験した人は「不思議だが、気持ちいいかんじ」との感想を述べました。

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 Fig.6 被験者は誰でも思わず笑い出す気持ち良さ

 

よく分かりませんが、おそらくは、z軸の1秒弱というのは、「触れらているのに圧を感じない」という矛盾する情報によって状況把握の処理速度が一瞬落ちるのでしょう。その無防備な瞬間に「脊髄反射を引き起こさない程度のゆっくりした運動」を加えてやるとフラフラと倒れてしまうのかと思います。仮説ですが、何とも言えない独特の感覚です。

 

この「感覚のわざ」に特化して研究・練習しているのがH先生主催の神戸稽古会です。それだけでは、襲ってくる人を撃退したりする武道にはなりませんが、ぎゃくにどんな武道であっても最終的にこういう感覚がなければ頭打ちだと私は思います。

H先生は今月24日に公開稽古会を開く予定だそうなので、興味のある方はぜひ体験してみてください。日常生活ではまず味わうことのない不思議な感覚です。

 

 

【6. 合気道とは何か】

 合気道をしたことがない達人

今回はとても衝撃的な体験をしました。

参加者の一人 Nさんはほっそりした女性で合気道を含め武道の経験が全くありません。普段は上記「神戸稽古会」でひたすら感覚の練習を積んでいます。そのせいか身体感覚が敏感で、Nさんに「良い姿勢」や立ち直り反射をしてみると、のみこみが早いのです。そして逆に私を崩してもらうと、こちらの重心のズレに良好に反応して、またたくまに私は大きく体勢を崩されました。Nさんは武道をしらないので「あら、ここからどうするのー?」と止まってしまったため、口頭で「下に落とせばいい」と説明すると、素直にその通りにします。結果的にそれは逆半身片手持転換隅落としになりました。私が床に落とされたあと、飛び起きて大騒ぎするほど衝撃をうけたのは、その一連の感触が、合気道の達人に技をかけられたときとあまりにそっくりだったからです。

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 「技は後からついてくる」ということの実例

稽古記録53 囲み記事 ~受の行きたい方向へ~ で述べたように、「合気道には元々技の名前などなく、相手の崩れ方に応じて自然と技になるだけ」とはよく聞く言葉です。理屈ではその通りですが、これを実際に体験することは非常にまれです。なぜなら 崩しをキレイに決められるほどの合気道家は 技(型) の技術も高いため、どちらが効いているのかわからないからです。崩しの技術は高いが、技(型) をしたことがない人など普通はありえません。私たち合気道稽古者はもっと技(型) を決めたいと思うから、崩しの感覚習得に血道を上げるのです。武道や技(型)を知らなければ、根気のいる崩しの感覚を練習するだけのモチベーションが保てないはずだからです。

Nさんは珍しく、感覚の稽古自体が楽しくてそれを何年も続けた人でした。Nさんのように、感覚について徹底的に訓練された人が誰かを床に落とせば、それがすなわち合気道の技になっている。それを目の当たりにして私は感動すると同時に混乱しました。

 

 合気道経験がないことが有利になるという皮肉

合気道経験があると、相手の崩れをじっくり感じる余裕がありません。技(型)へもっていくことに頭が一杯なのです。Nさんはしかし、技(型)をひとつもしりませんから、技(型)の心配をしたりせず、その瞬間瞬間の感覚の変化に集中できるのです。そしてひとたび教えると瞬く間に崩しの極意を体得しました。私が混乱したのは、合気道経験のなさが、あきらかにNさんを合気道の天才にしたからです。

 

 合気道の本体

本来、合気によって相手の重心を崩すことが合気道の一番の特徴です。それに引き続き相手に合わせて対応する動きが結果的に技になります。隅落としとか、呼吸投げとか、四方投げという名前で呼ばれます。もちろん崩しただけでは、訓練された人はすぐに体勢を立て直してしまうので、Nさんのように「崩せたけど、このあとどうすればいいか分からない」と立ちつくさないように、隅落としとか呼吸投げという始末のつけ方を身につけなければなりません。

よって、隅落としとか呼吸投げとか四方投げをすること自体は、合気道ではないのです。これらは合気道した結果を、キレイに始末つけるための枝葉です。

 

 「技をしよう」が邪魔をする

しかし、多くの合気道道場では、技の形(型)から稽古しはじめます。合気道としては副次的な技の型を、ヘタすればずっとこればかり稽古します。その結果、受の重心のズレを感じられないばかりか、それを感じる事が必要だという概念すら持たないまま稽古しつづけたりします。たとえ、結んだ感覚が大切と分かっていても「今から四方投げをしよう」と決めてからかかると、おのずと感覚運動両者に方向性が生まれます。受がどのように崩れようとも、四方投げの方向に行かなければならないのです。四方投げという始末をつけなければならないタスクで頭が一杯で、感覚にまで気持ちが回りません。悪いことに、受のほうも四方投げをされると分かっているので、体がその準備をしてしまうのは避けられず、「武道の理想である方向性のない攻め」を感じたり、それに対応したりする機会が奪われます。

 

じっさい、一般的に合気道経験者は感覚の稽古に難渋するものです。崩すよりも技(型)にもっていかなければ、と思ってしまうのです。「あ、いま受はこちらに圧力がかかっているから、こちらに倒れたがっているな」ではなく、「天地投げをしなければならないから右手はこっち、左手はこっち」となってしまうのです。悲しいことに、従来の合気道を熱心に稽古してきた人ほど、その経験が邪魔をするのです。私は1年くらい、これに苦しみました。技(型)にはめる事への強迫観念を捨てることにです。

 

 理想的な稽古の順序

このことから 上質な合気道習得には、理想的にはNさんのようにはじめの2年くらいは身体感覚をひたすら洗練させる訓練をして、そのあとで自然と動いた体の動きに「それは隅落としと呼ばれているよ」とか、名前を付けていくことが、結局一番の早道だと思います。

とはいえ現実的には、感覚練習ばかりやらされてはつまらなくて門人が集まりませんから、技(型)も教えなければならないでしょう。感覚稽古をする共通の器としても型稽古は有用です。ただし見た目に派手で楽しく、上達が目に見えて分かりやすい技(型)ばかりに重点がおかれないように注意しながらです。もしくは、ポピュラー化のために技(型)を中心に稽古するにしても、せめて感覚の稽古を平行してやるべきです。

 

 合気道とは何か

私はいままでNさんをみて「感覚の稽古だけやるなんて退屈だろうに。合気道か何かもやればいいのにな」と思って地域でメジャーな合気道道場に誘ったことがあります。その時はNさんは「痛そう」ということで入門しませんでしたが、今思えばそれが正解だったのです。このブログでも延々考えてきた「合気道とは何か」がやっとわかった気がします。そして、その合気道は自由で胸が澄むように感じます。一回一回のやりとりごとに、相手との間に技という現象が現れては消え、同じ技は二度とない。なんと潔く爽やかではないですか。