大阪合気道自主稽古会

流派を問わない合気道の稽古場です。漫画、小説、修行の旅が混在しています。稽古記録はタグをご利用ください。

深夜回診3

        

(続き)

病院なのだから治療するのが当たり前じゃないか、で問題なかった時代は去りました。寿命以上に生存する人の多くは老人病院などの施設から異変に気付いた職員に付き添われて運び込まれます。このとき大事なのはどこまで治療するかということです。21歳男性、目撃者のある溺水で心肺停止、救急隊により胸骨圧迫(心臓マッサージ)されながら搬送!みたいなケースは即、集中的高度医療を行います。迷う余地などありません。本能のままに助ければいいのです。しかし寝たきりで反応がなく、胃瘻から栄養を注入されて5年にもなる超高齢老人、どうしましょうか。

治療方針(どこまで治療するか、それとも自然経過に任せるか)の決定権は慣習的に日本では家族が持ちます。何年も面会に来ない家族でも、会ったことのない親類でも、とにかく血の繋がりが重視されます。日夜患者を見てきた友達やケアマネージャー、看護師がそこにいるのに、初対面の遠い親戚のサインや同意を躍起になって取ろうとする我々のさまはとても奇妙です。理論を越えた土着の風習を感じます。OECDとかいっても、個と血の取り扱いについては良くも悪くも深アジア的です。

職員が連絡を取ると、ときに家族の人は駆けつけることなく、この姿を見ることもなく電話口で「できる限りのことをしてください」と言い残します。
患者本人は年のせいで普段から意識もなく体を動かすこともできなくてもです。誰ひとり会いに来なくてもです。皆自分の人生で精いっぱいでそれぞれ事情があるので、施設に預けっぱなしであっても他人がとやかく言うことではありません。しかし「できる限りのことをしてください」を本来の意味でなく、”こういう時はこのセリフがすわりがいい”、程度の気持ちで言うのは禁止にしてほしいです。漫然としすぎで、無意味きわまりない。無責任きわまりない。今の医療技術で「できる限りのことをする」ことが、時にどんなに悲惨かを多くの人が知らないために、知らず知らずに残酷な事態がおきています。それは医療さえなければ起こり得ない、人類史上類を見ない苦痛であり、ゲーテや地獄草紙の作者の想像を越えて淡々と今日も地上に展開されています。

 私も訴えられることが怖かったり苦情が面倒だったり多方面からのバッシングが鬱陶しかったりで、文字通りできる限りのことをやってしまったりしました。個が尊重される文化圏では家族が何と言おうと「患者にとって利より害がまさる処置はしない」という医療原則(正確には誓約。なぜか医学部卒業時に全員、紀元前のギリシア人なぞに誓わされる) が適用しえますが、親戚の目や世間の空気を個人の希望より重んじる地域では難しいことです。

これを有害と認識できないのは、命とはなにかの目的を為すための手段であるはずのに、命自体を目的と取り違えているためです。多くの、多くの人たちがそうです。

     《 続く 》