(続き)
難しいのは、誰が悪いというのではないことです。Tさんは話ができた頃に、さっぱりした自立心のある人格という印象を受けました。家族はTさんに愛情をもち、医療者のことも気遣ってくれます。看護師たちは細かいケアをしてくれます。足りなかったのは、どんなに元気であってもいつかは弱るので訪問診療などのサービスと繋がりを作っていれば、自宅で自然に看取れたのだという情報です。
病院も悪くありません。急性期病院の目的は治療ですから治療のためのルールがあります。自然死する場所として想定されていないので、死にゆく人にとっては無意味なルールが多いです。人間らしさを奪う滑稽なことが起こります。消灯時間だから家族を帰らせて残り少ない家族との時間を奪う?酸素投与(末期には有用性が証明されていない処置)のために手を縛る?しかしこれを破ると、医療安全という本来患者を守るための制度に違反することになります。
呼び出しを喰らいとても厄介ですから遵守します。医療安全部は彼らの大事な仕事を熱心に遂行しています。Tさんも家族も声には出さないが「なぜこんなことに?」と途方に暮れているのが分かります。彼らは何も悪いことはしていません。私だって悪くない。ただ誰も、現代日本が相当周到に準備できる人以外は自然に死ねない異常な状況になってしまっているのだということを教えてあげなかったのです。
人はよく、ピンピンコロリがいい、とか余計な治療はいらない、といいます。実際はピンピンしていた人が急変するというのは、「医療ミスに違いない」とか「もっと早く病院に行っていたら助かったのではないか」とかいうふうに、怒りや後悔が特に強いパターンです。望み通りの死のはずなのに、家族は死をまったく受け入れることができません。逆に長病みで苦しみながら徐々に死んでいくと、(本人は辛いですが)家族の死の受け入れが良好です。
そういうわけで、救急車で病院に運び込まれた寿命間近らしい高齢患者がコロリと行けそうに見えても「このまま死なせてあげたらどんなに楽かな。でも何もしないのはマズイ」という感じで治療開始してしまいます。
《 続く 》