40歳(※)になったらみんな、自分自身で引き際を決める訓練を始めましょう。
治るチャンスを逃すかもしれない、治療の手を抜かれるかもしれない、というインパクト不明のリスクの大きさと、自然に死ぬことができないという現に存在するリスクの大きさを比べましょう。
死が観念でしかないと想像のなかで前者が膨れ上がるだろう。死を肉眼で見ていれば、後者の方が桁違いに恐ろしいことが分かる。
Tさんは95歳のおじいさんです。先月までなんとか1人暮らしをしていて、近所に住む娘が頻繁に様子を見に行っていたが、風邪を契機に食事の量が減り衰弱したため救急車で来院しました。痩せているが骨格は大きく、生来元気だったことが伺えます。食べたくないというのを宥めて、飲み込みやすい食事を介助で与えてみても、飲み込む力が衰えていて食べ物も唾液も気道に入ってしまい肺炎になっています。
寿命が近づくと食欲がなくなります。水をほしがります。水も飲まなくなり、そうして数日で亡くなるものです。これは病気ではなく自然の経過です。妊娠したら月満ちて生まれるように、子供の背丈がどんどん伸びるように、寿命がきたら元気がなくなって食べなくなって死にます。
癌や何か病気の名前がつけばわかりやすいですが、老衰死は家族はかえって戸惑うようです。「最近まで元気だったのに、弱るなんて正常ではない。なにか原因があるに違いない。治療があるに違いない。」と思います。
家族は心配してTさんに一生懸命食べさせようとします。食べないから死ぬのではなく、死ぬから食べなくなるのですが、見慣れない人にとってそれは餓死をさせるように見えて、自分たちが酷いことをしているように思われてじっとしていられないのです。Tさん本人は食べるのを嫌がり、眠っていたい、寝かせてくれ、といいます。
水分を取らなければ数日で人は死にますが、病院では点滴があるので実はここからが長いです。数十年前のように自宅で看取るのならば、点滴もなく、もし食べたいものがあるなら誤嚥を承知の上で家族が好物を最後に食べさせるなどは問題なかったのです。しかし急性期病院は高度医療を提供するところです。そのようなことをすると、見方によっては「不適切医療」と言われてしまいます。長期療養型施設では人間関係ができていればもっと臨機応変に対応することがありますが、既に末期のTさんはどこにも引き取ってもらえません。在宅医療を導入するにも時間がかかります。せっかくこんな歳まで元気でいたのに、医療機関など縁がなかったからこそ準備がすっぽりぬけているのはよくある話です。
Tさんのように、老衰で死ぬまでの長い期間を病院で沈殿してしまうケースが増えました。10年ほど前から病床は、病気ではなく治療を要さない、しかし自然死できない人達でいっぱいです。
《 続く 》
※ 40歳は何十万年ものあいだ、人類にとって老人になる年だったからです。