大阪合気道自主稽古会

合気道経験者のための不定期な稽古会です。忙しくて道場に通えないが時々稽古したくなる人向け。流派は問いません。

成田先生の本を読む

光輪洞合気道の成田新十郎先生という方が書いた練習メモノートが大変面白いです。内容的に絶妙なタイミングすぎるので、もしかすると合気道業界全体の傾向なのかもしれません。これは無元塾の白石太志先生の推奨図書です。
 
私たちは合気道を武道として考える際に「身体技法(合気道)」と「内面技法」に分けて考えます。混乱を避けるための方便です。このたびは私たちにとって他流派である成田先生の新刊を、私たちの立場から読んでみます。流派に関わらず、理解の補助線としてこの分類は使えそうです。 
“円

“円"の合気 修得のキーワード! 稽古日誌に記された短く深いことば

 

(以下引用。””および「」は原著。太字、下線、『』、色付は当方のアレンジです。)

 
<第二章 合理的身体操法の研究>
・ 接触点をそのままにして腰回しによってふわりと腰を落として、接点で剣の重みのみで相手に無限大の血からを与えてほんの少しの緊張を与える。すなわち崩れを与える。相手に与える無限大の力とは…虚体に対してはほんのわずかでよい。…(p56)
      → 合気道に属する。

・ …接触点はあくまでも動かさないで腰でふわりと剣の重みだけで押さえることによって、『相手にピックッというほんの小さい緊張、身体の固まり、崩れを与えて、即ちこちらは自由に動けるのに、相手はもう一度体勢を安定を立て直さないと次の動きに移れない状態とすること。そしてその崩れを延長して最後まで体勢を安定させない。付いて離れず、自由自在に自らの動きに同化させてしまう。これこそが合気道である。』(p56)

      → 神戸式的な合気道に属する。合気道とは、の一つの答え。
 
・ 刃の下こそ安全~ 得物にたいしては一歩踏み込むこと。常に刃の下に踏み込むことによって安全である。(p74)
      → 合気道
 
・ 技は大きく。瞬間の早い技というものも早く習っては役に立たない。拍子ばかりとって早く行おうというするために使いものにならない。迂遠な大きな周りの中でこれを習熟するべきである。(p75)
           → 稽古の仕方のこと。稽古だからこそゆっくり一枚一枚接近していける。合気道に属する。
 
・ 浮き腰  浮いた体としての動き。例えば70キロが石のように下に力を加えたようにではなく、例えば30キロくらいに感じるような動き。(p76)
      →「浮いた体」と同様な意味だろうか。合気道に属する。
 
<第四章 "ぶつからない"ための意念>
・ …そもそも"球"は「丸く動こう」と意図せずとも、自然に相手の力に添って丸く動くのです。すなわち無意識の境地、それが真の「腰の回り」です。相手の動きに応じて、無意識に回ってしまっていた、ということでなければならないのです。(p134)
      → 無意識という言葉は出るがテクニックであり合気道に属する。
 
・ 「見るのではなく、写すのだ」というのは、第一章でも触れた、平井先生の言葉でした。見るだけでもそれは作為、そうではなく水面のように写すのです。でなければ、写らないのです。(p135)
     → 生理的な情報処理の問題。よって内面技法的だが合気道に属する。
 
・ 勝負の時の技~ …平素の腰回しの稽古を怠りなくしていないと、真の技が無意識に出てこない。(p136)
      → これも鍛錬による反射の形成。合気道に属する。
 
・ 自我を捨てて球理に従う~  自分の持てる腕力、体力をできるだけ捨てきることによって、理に合った体の捌きに則った変化が得られる… 何かを得んとすると…自我の為に自分の持てる腕力や体力をもってそれに対処しようとする… 崩れとなる。 『あくまでも自分を捨てきって球転の理に従うことによって、瞬間的に自分の持てるものが自然に出て偉大な瞬発力、破壊力を発するのである。』(p136)
       → 神戸派による内面技法の分析と似る。
 
・ …ある物事に意識が集中した瞬間は隙だらけで”死に体”である。(p141)
      → 合気道
 
・ 目付、瞬きするべからず~ …目付ができるとドジョウが入るような感じでするりと入れる。目は鏡として認識することが大切である。見て知って覚えてというような複雑なことはしない方がよい。(p143)
   → 「浮いた体・運足法」のウナギとは目的が異なるが、成田先生式つまり無意識を使用するなら日頃のウナギがふいに出てくることもありだろう。
 
・ 想いなき打ち 拍子打ち 心武 打てば勝ち目あり~ …”想い→見て→打つ”という人間業の三段の順序を逆にするには、打つのに想いも見ること(判断)もない”想わず、見ずに、打つ”ということになる。前者にはそこに作為が生じるが、後者には作為がなく無雑である。このような”無雑な打ち”というものは”ものの拍子”で打つのである。拍子とは”もののはずみ”を言うのである。(p149)
       → 内面技法に属する。
 
・ …意によって身体を捌くことが円転を会得する一番の近道である。…意から出る技は腰回りから出るものしか出ない。…糸のタマがクルクルと回転してほどける時の無数に回る姿、これが武道の意の現れ、体捌きの姿である。(p154)
        → 合気道
 
<第五章 合気の境地>
・ …「対抗しない」のだから、相手が何をやってくるか、などを予測しながら対策を講じる必要などないのです。なぜなら相手と自分は「対抗関係」にないのですから。(p156)
         → 内面技法。
 
・ 人格にも反映される話…しかし”円転無窮”の心を持った人には、必要以上に警戒心を抱く必要も、攻撃的にかかる必要もなく、誰にでも自然に合わせられるゆえに、敵はできません。いわば「無敵」の状態です。(p157)
      → 内面技法。
 
・ 神仏を敬いまつる 頼るまじきぞ(p175)
     → 合気会風?神仏は横に除けておく 分かりやすい。
 
・ …写し写されるのに時間差はないのだが、実はあるのである。前へ出る「気」が合って初めて前へ出るのであって時間さがあることを実証している。これが「気」である。時間を超越しているところに「気」がある。事は同時であっても気の方が早い→「気発」→これを気発の妙という。…体捌きとは球をそのまま丸飲みにしなければならぬ。…体捌きは心術である。(p181)
              → 分類不能。